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日はまた昇る(ヘミングウェイ、高見浩訳、大久保康雄訳)

Hiwamata2 実は、昭和三十年発行の分と平成15年度発行の分と二冊読みました。
内容は、同じ作者なので、同じなのですが、訳者によって、かなり違います。
よく、シドニイシェルダンの訳で超訳だとか言われてますが、一度、日本語の内容に意味をならし、もう一度、筋の通りのよい日本語になおすという作業は、見えない部分であっただけに、こういうものかということに合点がいきました。
どんなに国語力があったとしても、つじつまのあわない前後には、結局意味不明のまま、頭のなかでは、はてながうずまいて、そのまま、ストーリーは進行してゆき、あげく、つぎはぎだらけのまま、終わってしまうものだなと思うのです。
まあ、もっとも、そのあたりのことをふまえて、読んでいけるのなら、文面に忠実な訳のほうがありがたいのでしょうけれども。

と、まあ、どうでもよい話はさておいて。
読み比べながらの読書も、特に会話においては、興味深いものがあります。
何より今回のこの読み比べで、一番、得したと思ったのは、ヘミングウェイのちょっとした、被虐感のようなものを感じ取れたこと、当時は、この程度でも自堕落ではあったとは思いますが、今は、これぐらい奔放な女性がいても、そう、違和感は、ありません。
翻弄される男性には気の毒ですが、自分の気持ちに正直になるというのも、奇妙に幸せなことだとも思えるのです。
それにしても、このふた通りの訳に接するに、もしかして、この訳者のおふたりの環境、言語スタイル、それから、感じ方、考えかたまでも、ヘミングウェイの小説ともからみあってのものだと思うと、この訳するという行為は、なんだか、作者と訳者の合同創作物のような気がだんだんしてまいります。

迷走しっぱなしになりがちですが、肝心のこのストーリー、まじめに論じるのはどうだかと思われるような人たちのおりなす人生の一駒でもあります。
戦争で性的不能に陥ったジェイクと、婚約者がいながらも、感情をおさえられない美貌のブレット。
このふたりもある一種の愛情で結ばれているという人間模様には、ときおり、人というのは、やりきれないものを抱えながらも、それからのがれるすべもないものだと、業のようなものを感じたりもします。
はたから、みると、くっついたり、はなれたり、はたまた、くっついたり。
どうなってるの?がいっぱいですが。
それはそれで、ああでもない、こうでもないと瞬間瞬間で思うものなのでしょう。

スペインの闘牛の迫力迫る様子もパリの街並みも、80年も前のものなのに、いきいきと、色づきだす感じがします。

写真は、美貌のブレットの実在モデル、それから、ヘミングウェイなど。Hiwamata1

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