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2009年1月

ATM

いつものようにいつものATMの列に並ぶ。
前にいる方は、年配の女性。
一メートル後ろにいる私。
後ろから推察するに、アナウンスの確認ボタンを押してくださいという指示に今いち、もたついているよう。
その確認ボタンがいったいどこにあるかということは、機械は教えてくれない。
ホタンの位置を探すということと、まず、その前にそのアナウンスの指示に従うという関係がわからずにいるかとも思う。

挙動不審者のように小刻みにうごく上半身の年配の女性。
見かねて、窓口の人を呼びましょうか?と、小声で後ろから呼びかけるも無言。
たぶん、聞こえないのではないかと、大きな声で。
どうされましたか?
と、後ろから覗き込んで、反応を確認。
このご時勢だから、もしや、すざましい警戒反応の嵐にあったならば、すぐに、郵便局の人を呼べるように身構えしながら、待つ。
きょとんとしてる年配の女性につい、ばあちゃんに対するいつもの調子が出てしまったか。
あーー、これですね。画面の確認ボタンを押してくださいといってるみたいなので。と、ボタンを指差す。
勝手に触って、文句をいわれてるも困るので、本人に本人の指でおしていただく。
すると、通帳と、明細表をおとりくださいと、アナウンスがある。
吐き出された通帳を持って、年配の女性、すでに、半身後ろに動く。
いやあの、明細表が・・・・。
と、私と入れ替わり様、立ち去りそうな年配の女性に明細表を素早くつかみ、手に渡す。

機械との対話。
いくら、わかりやすさと、利便さを追求したとて、その方の理解度にあわせて対応するというのは、百万年たっても、無理なんじゃないかなと思う。

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波に座る男たち/梶尾真治


Naminisuwaru 荒れた学園をやくざさんがのっとって、義理と人情のシステムで、生徒を立ち直らせていくという胸のすく物語があったけど、これも、それに似てるとこがある。

超単純馬鹿だけど、熱血情熱を持つおとこたちが、馬鹿一筋だけにかえって、事を成就していく様が笑えながらも、涙したりする。
かなり面白い。ストーリーそのものよりも、語り口に魅せられていく。

いきなり、博多の料亭から始まる物語は、借金で首がまわらなくなり、やくざに連れさられる。
連れ込まれたところは、台所。
それがいつのまにか、捕鯨船のコックにおさまっている。
そして、気がつけば、クリーンアースという環境保全団体という過激な団体に命を狙われる。
しかも、香港マフィアからも、捕鯨船が攻撃を受ける。
銃撃戦ありの派手なアクションもあり、しかも、なかなかに風刺もきいている。

環境問題としてのクジラ捕獲禁止が、実はクジラしか採れないという成分により、難病の我が子が助かる。
というパラドックスを含んでいることに気づいて、愕然とする。
その難病の子供を抱えるのがクリーンアースの過激な集団のトップであるというから、皮肉なことである。

思うに人間がいること自体が自然や環境にとって、悪であるという結論になるんじゃないかと思う。
人間がいること前提での、こそくな手段である、みみっちい努力というのは、宇宙規模に比べれば、はなくそみたいなもんじゃないかと思うのは私だけ?

これ、おかしく笑って、その通りとうなづきながら、マンガチックな流れにのっていける。
最高に最後まで退屈せずに読めるといううれしい展開だ。

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ユグノーの呪い/新井政彦

Uguno

人間とは記憶である。
記憶は人間の命である。
我々ヴァーチャル記憶療法士は人間の命を預かる者なのだ。

人間の記憶から発する身体的症状をなおすために、記憶空間にはいり、正しい記憶を取り戻すお手伝いをする人たちの物語である。
いささか、理解しずらい概念だけれども、ゲームのバーチャル空間といえば、わかりやすいかもしれない。

塗り替えられた記憶のせいで、目が見えなくなったりするなんて、現実では考えられないけれども、未来的発想ならば、ある得るかもしれない。
そのあたりの概念の面白さがある。
それとシフトして、歴史的背景を組み込んでいく意外性。
フランスのユグノー戦争で暗躍したカトリーヌ・メディチの呪いからの症状だと父親は、断言する。

ルチアの不可解なふるまいは、なぜなのか?
最終的種明かしは、ちと、俗説っぽいすぎる嫌いがあったが、ミステリーとしては、面白い。

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手作りソーセージ

Uin
燻製教室の日。
ビーフの入ったポークウインナーを作る。
三回目だが、今だ、行程の一部しかしてないせいで、おいしいだけで、終わり。

今回もここ、してと言われた、皮にミンチ肉を詰め込む作業。
化学の実験に使うようなガラスの棒に通してある白いふよぷよのものを生クリームの押し出し機の先にあてがって、左手で、形よくミンチ肉が美しくぶりぶりと入っていくように押さえつつ、右手は、忙しくカチカチと鉄砲うちをする。
勝手がわからず、皮が二重になるカントンになったりして、アウト。
皮の途中で中身がプリっとはみだして、アウト。
皮に空気まみれになるすかすか。
駄作にまみれながら、慣れた頃、終了。
そのあとは、特性鍋で燻製にしたり、なべの湯にほおりこんだりしてたようだ。

他の班を見ると、パセリ入りありやら、ゆず入りだとか、いろいろ。

仕上がりを見ると、色もばらばら。
へぇーっ♪
白いのあり、黒いのあり、混じったものあり。

でも、おいしければ、それでいい。

できあがりは、粗挽きソーセージ。
なかなか、おつなもの。

Uin2 で、第二弾。
このまま、食べるのもいいが、ピザもいいじゃない。
ちゃっちゃっと、のっけて、焼いてみた。
たぶん、チョーうまいよ♪

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ソウルの練習問題(関川夏央)

Souru

初版が1980年頃なので、かなり前の記述ではある。
が、お隣の国、韓国を普通の人がありのままに見た姿は、今でも十分通用するんではないだろうか。
顔かたちは、全く同じアジア人であるのに、実は、根っからの外国である韓国。
ものの考え方、気質、どれをとっても、日本人にはまるでない性格。

毛嫌いしている人もハングル大好きな人も、違いにぷっとふきだしながらも、いい得て妙な記述に思わず、拍手するのかも。

気づいてなかったけど、日本人に必須のあいづち、「ああ、そうですか」は、実はおかしいらしい。
日本人の特徴をあらわすのに、何の返事にも「ああ、そうですか」「ああ、そうですか」と、結婚の承諾みたいな大事な場面でも、真剣な場面でも多用されているというふうに韓国の映画ではあらわされてるらしい。
苦々しく思いながらも、そうかもと思う。
日本人からは、にんにく臭いと思われてる韓国人にしたら、日本人は魚くさいだとか。
考えてみれば、無知なるがゆえの誤解もたくさんあるのだなあと思う。
それに、一番重要な手段の言語ツールがない。
なんでも、ハングルの丸書いてちょん的な看板だらけには、ハングル酔いに陥るらしいのに、漢字は、全く通じず、お互いに英語は不得手ときている。
発音も似てるようで、似ていなく、つとっが苦手なハングル。
逆にMの発音の違いがわからぬ日本人のMの悲劇など。
数え上げればきりがないほどだ。
まあまあ、そういう違いがあるものの、理解しあおうと思えば、できなくもない。
九州からだと、東京行くより、近いお隣の国。
それなのに、その溝は深い。

しかし、日本人の白人崇拝と同じように、韓国もハングルができる日本人よりも、英語ができる日本人のほうが一目おかれるとは、なんだか、目くそ鼻くそ笑う的な滑稽さが感じられて、面白い。

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