最近、裁判員制度で、にぎわしい。
これを契機に少し、裁判というものについて考えてみよう。
この本は、お子様向けにはなっているが、そもそも、人間の尊厳を守るという意味での基本のキ、人権というものは何かということについても、掘り下げてある。
と、書くと、非常に難しい話のように思えるかもしれない。
しかし、毎日の生活を送る上での、細かな裁判。
例えば、3年1組のクラスのホームルームで、「誰々さんが生き物かかりなのに、金魚にえさをやっていないから金魚が死にました」と指摘されたとしよう。
そこで、誰も発言がなければ、誰々さんは罰を受けることで終わってしまう。
しかし、そこで、クラスの誰かが、Aさんが金魚にカレーをいれたから、金魚が死んだということを目撃したのを発言したとする。
すると、Aさんがほんとは、原因だということになる。
けれど、そのAさんは、Bさんに脅されていたとする。
となると、ほんとの主犯はBさんだということになる。
事件の、真実を見極めるというのは、すごく難しいことなのだ。
しかも、人間には感情がある。
そのBさんが明るく成績がよい人だと、こんな人がそんなことをするわけがないと思ってしまう。
まこと、人間とは厄介なものだ。
そんなふうに、すごくわかりやすく話は進んでいく。
昨今、裁判員制度ができ、 みんなに裁判に参加してもらって、有罪無罪を決めてもらうということではあるが、なんか、腑に落ちない。
法律のホの字も不確かな人が勝手に感情だけで、こいつは、悪人顔だから、有罪なんてことにもなりかねん、罪状が凶悪になればなるほど、死刑に傾くのではないだろうか。
そういえば、裁判員制度の始まる前にお勉強と称して、裁判というものに詳しいNPOの方の講演を聞いたことがある。
すると、裁判官というものは、実は、まるで世間というものを知らないいわば法律全書だけに徹してるという輩だという。
そういう人だけに裁判をまかせるのが不安だから、裁判員制度ができたという。
しかしながら、それだとすると、ますます、裁判という制度にたいする不信感がでてくるのではないだろうか。
最近は、冤罪が認められた方も多い。
そんな間違いを起こす裁判制度に、裁判員制度よりも、もっと、違うものが必要なのではないでしょか。
考えるということを促すという意味ではこの本は最適である。
死刑制度についても、単に悪もんは死刑という短絡的観念ではなく、人間であるということを深く掘り下げていくならば、その制度というものがほんとはどうあるべきかということもまた違ったものになるだろう。
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