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2009年12月

Z(梁石日)

やんそぎると入力して、一発変換できるって、すごい。
って、変なことに感心してる場合じゃない。
朝鮮という国の歴史的事実をふまえて、謎が進むこの物語は、スリルとサスペンスに満ちている。
在日朝鮮人の朴敬徳は、生まれ故郷の済州島に行ってみて、戸籍上、死んでいるのに驚く。
戸籍を取り戻すために従兄弟の朴大順に会いにゆくと、全く違う人間だった。
そして、その人間は殺される。
自分をとりまく糸が壮大に黒い糸にからまれていく。
Zとは何か。Y秘密組織とは?
裏で暗躍している秘密組織というのは、歴史上たくさんある。
この本でも、どこまでが虚構でということが難しいほど、真に迫っている。

今まで、朝鮮のあの38度線がなぜできたのかということの意味が正確に把握できていなかったのだけれども、これを読むとよくわかる。
あの金正日さんがなんで、あそこにいるのかも。
そして、朝鮮という国の不思議さ。それに、日本の敗戦時の有様など、鳥肌ものでもある。
その昔、嫌韓流という本を読んで、多いに韓国が嫌いになったものだけど、こうして、歴史的事実がわかってくると、致し方ないし、戦争で飲み込まれてたのは、日本も同じだということがわかってくる。

サスペンスを味わうのが本望だとは思うが、朝鮮という国を理解するのにも得難い一品だなあと思う。

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一杯のかけそば

忙しい年末、聞くともなしに車のラジオに耳を傾けてた。
視聴者からのおたよりコーナーがあってた。
その方がこどものとき、おとうさんがいなくて、母親とお兄ちゃんだけの家庭だったそうだ。
とても、貧しくて、クリスマスケーキを買うこともできず、母親が働きにいってるあいだに、線路沿いにくず鉄を拾い集めて、お金にかえていた。
そして、みんなで、うどんを食べたいとうどんやに行くけれども、一杯分のかけそばも買えなかった。
うどんたまだったら買えると、うどん屋さんにいわれて、うどん玉求めて、また、歩き出した。
すると、おいしそうなラーメンのにおいが流れてきた。
むちゃくちゃ、ラーメンが食べたくなった。
においに我慢できなくなって、ラーメン食べたい、食べたいと言ったんだそうだ。
そしたら、母親は、やさしそうに、いいよ、と、ラーメン屋によることになった。
みんなで、ラーメン屋さんに入ったけど、一人分のお金しかない。
母親もお兄ちゃんもおなかいっぱいと言った。
幼いその人は、無我夢中で食べた。
食べ終わると、お客さんは誰もいなかった。
店主がもう、売れないから、替え玉ふたつ分あげるよと言った。
みんなで、食べた。
すると、ぎょうざも売れ残りがあるから、食べてくださいといわれた。
じゅうじゅうと焼いてくれた焼きたてだった。
ぎょうざも食べた。
ラーメン一杯分で親子三人、おなかいっぱいになった。

相当、昔の話だと思うけれど、うるうる。
前が曇りがちになりながら、駐車場にバックでいれようと、一度、前方斜めに車を走らせてた。
ぎょえーー、目の前に車のケツ。
前方駐車場から、バックしてくる車。
がちんこかい♪
って、うるうるした目元が一瞬でガビガビになった!

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必殺♪手抜きうどん♪

だいぶまえに、知り合いがおうちでうどん作るの、カンタンよ♪っていってた。
そのことがずっと頭にこびりついてた。

そんな時、料理本を見てたら、こねをホームベーカリーですれば、らくちんだと書いてあった。
しめた!
それなら、私でもできるかも♪

数あるレシピの中から、分量をチョイス。
強力粉と薄力粉半々でいこう。
それに、0.3パーセント塩と、粉の半量の水。
これをホームベーカリーにぽんぽんとほおりこむ。
そして、コースをこねにする。
そのまま、待つこと、一時間半。

できたものに粉をつけて、まな板の上でのばす。
綿棒でのばすけど、なかなか、のびてくれない。
のびたくん、およびよ♪と呼ぶけど、ジャイアンしかきそうもない。
仕方ないので、四苦八苦しながら、なんとか、まな板ぐらいにひろげた。
これをそば道場みたいに三分の一づつおりこむ。
んで、名人になったつもりで、包丁で切る。
最初は、大きくて、だんだん細くなる。
これ、素人の哀しさよ。
できあがりの大きさがつかめない。仕方がないけど。
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鍋に湯をわかし、ほぐしながらいれる。
よくほぐしてないと、くっつきまわって、団子になってしまうらしい。
3分たつと、沸騰してこぼれそうになった。
あわてて、火を止めた。
これくらいでよかろう!と、えらそうに、どんぶりにつゆをいれて、できたて麺をいれた。

食べてみた。
かったっーーーい。
四国の讃岐うどんのかたさよりも、よりより固い。
それになんだか、だんごくさい。
すいとんのあれ。
すいとんが棒状じゃん。
というかんじ。
おそまつやねーっと、思いながら、製作担当者なので、仕方なく完食。
でも、まだ、半量残ってる。
よくみると、麺の表面は、ぶつぶつ。
売ってるうどんのように表面がなめらかじゃない。

なんか、間違ってる・・・。
なんだろ?

ゆで時間か?
三分でひきあげたこと?
ものはためし。

あと、10分ほど、ゆでてみた。
すると。
麺の表面がすきとおってきた。
それにつれ、ごつごつがつるつるに。
へーっ。
ゆで時間は、麺をこうかえる。
すごいねー。
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なめらかうどんをつまみ食い。
おーっ、だんごくささがなくなってる。
かたさもなくなってる。
つるつるになってる。
へへーっ。

まず、ワンコにも試食させた。
おぬし、ばくばく食べるじゃないか♪
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夏草冬濤(井上靖)

なんで、しろばんばの後編みたいなこれを読みたくなるのか、よくわからない。
どうしてか、読みたくなる。
純情な少年がものすごい田舎で、初めてのことに惹起していく様がなんとはなしに郷愁を誘うのだろう。
それも、この年齢だからこそ・・・なのか。
多感な年頃に友達や先生や、物事に感化を受けていく様に心惹かれる。
たいして、すごいことがあるわけでもないし、使い古された不良の定番や、怠堕なことをやってみたくなる時期がやはり、懐かしいのかもしれない。

三人の上級生、いわゆる不良といわれている彼らに洪作は、たちまち、心奪われる。
そんな洪作を仲間として受け入れる。
足の裏が真っ黒だったり、シャツがなくて、上着のしたは裸だったり。
親からもらった机を買うお金で、友達と無茶な旅行にいったり。
どんな場面でも、あるがままをそのまま受け入れている所!かな。
なんだか、形を重んじる今ではない素朴さを感じるからか。

オチがあるわけでも、なんでもないけど。
いわば、タイムマシンにのって、その時代で遊べる、そんな楽しさにひたれる。

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しろばんば(井上靖)

あまりにタイトルが有名だと読んだ気になったりするのだが、これもそうだった。
読み始めて、やっぱり、読んだこと、なかったのに気づく。

大正の頃の話なので、私の親の世代くらいの話になりそうだけれども。
こどもの感受性という意味からは、今でも昔でも一緒だから、関係ないかもしれない。
もっとも、現代の子供からすると、違和感ありまくりで、さっぱり、雰囲気がつかめないかもしれないが。

うちの田舎の情景は、この本の中にある生活に似ているかもしれない。
親の世代の話なんぞ、まさしくこんな感じだ。

少年が生まれて初めて遭遇する日常のかかわり合いが回りの人との接点によって、成長していく。
出来事は、そこまで、劇的なことがあるわけではないけども、ひとつひとつが実に心の糧になっていくさまは、読んでいて、無理がない。
なんだか、こういう本が当たり前だということにあらためて気づかされた思いだ。

洪作が主人公だが、おぬい婆さんの生き方がすごすぎる。
洪作の曾祖父の愛人だったおぬい婆さんは、その家の蔵に幼い洪作と共に住む。
洪作も実の親よりも、おぬい婆さんになついてしまう。
幼い洪作は、おぬい婆さんが一番の理解者だったけれども、大きくなるにつれて、親や祖母やおばさんやおじさんにも影響をうける。
中でも、棚場のじいちゃんの生き方に感銘を受ける。
変人で通ってるじいちゃんは、日本でも有名な椎茸栽培の一人者だった。
そして、香椎という地名がその椎茸栽培の産地だったことをあらわしている!って、ほんと。って、びっくり。松本清張の点と線で香椎が出てきたとこも感動もんだったけど、こんなとこで、香椎が・・♪

成長していく洪作と、おぬい婆さんの老いがどんどん対比されてしまう。
今までは、洪作がおぬいばあちゃんに庇護されていたのに、腰がまがり、がんこになっていくのに、哀しかったり、いらだったり。
そんなおぬい婆さんの洪作にたいするかわいがりようは、やはり、ばあちゃん子と言われそうな甘やかし方でもある。
それはうらを返せば、惜しみない愛情をかけられてるということかもしれない。
物質がどれだけ裕福になったとしても、人の愛情という子供に不可欠な要素は、関係ない。たんたんと進んですくストーリーに無愛想なおじさんやら、むかつく言い方をするおばさんがことばとは裏腹にあたたかいものをもっていたと気づくところなどは、今、一番失われてるものではないかと思ってしまう。
ふと、こんな、情緒の機微は、もしかして、理解できない人がいたりするのではないかなとも思う。
ひさしぶりに本とはこういうものだったということを合点したような気がする。

読みながら、読んでる時間が、きちんと、本とともにあるという安心感がこれにはある。

それにしても、おばあちゃんは生き字引というのは、生きてこそである。
つい先日、祖母を亡くしたのだが、その祖母が若いときのことを語ってくれたあの話、この話、小説よりも、身にしみた。
なんてったって、それは、私の血にも流れているのだから。
口伝えというのは、レトロかもしれないが、間違いのない伝承なのではないかと思ってしまう。

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うまや怪談(愛川晶)

落語ミステリーでは、人情とミステリーの絡まりが乙なものである。
シリーズものになってる感のある紅梅亭ですが、今回の謎もなかなかのものだ。
落語一家の日頃の会話の絶妙さも楽しいし。
落語のサゲにたいする熱のいれようなんざ、すぐ、名人落語聞きにいかなくちゃ♪と思えるほど。
お話がうまいといえば。
稲川淳二の怖い話が有名ですが。
話の中で、ほんとに、幽霊があらわれて、おもわず、きゃーっと悲鳴をあげたくなるって、話術って、ばかにできん。
落語というのは、その世界にほおりこまれてしまうんですね。
言葉だけで、これだけの世界が広がるということをゲーム命の若者にも教えてあげたいくらい。

ネタバレになるので、あまり、詳しくは、かけないのですけど。
落語家も人間。
サゲがとんだ修羅場になりかけ、とっさにやった座布団まわしが拍手喝采になったということもありで、しかも、それが実は、修羅場の始まりだったとは!
やはり、落語家も人の子。
やるときは、やる。
やらなきゃ、男がすたる・・なあんてね。
いっとき、テレビをにぎわした、菜っ葉とか葉っぱとか、という名前のご婦人がいましたっけね。つい、かぶったりします。なんとかは、芸の肥やし。
いやはや、男は、いいもんだわ。

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雷山

雷山に千如寺というところがある。
お寺は大変由緒正しい。
1000年も前のこと、成務天皇の頃、清賀上人が開創されたといわれている。
ここの目玉は、樹齢400年の大楓。
秋になると真っ赤に紅葉して、すばらしいのだそうだ。
そんな大楓を楽しみに門をくぐった。
ああ、これこれ。
と、そちらを見ると見事に葉が落ちていた。
真っ赤なのは、土の方。
枝ぶりだけを堪能して、紅葉狩りは、地上にて。失礼。
しかし、紅葉は、はらはらと舞い落ちる枯れ葉こそ風情があるものだ。
まるで私たちのよう♪
散り際の美なのね。

そんな大楓を後にお寺の中にはいる。
山のお寺なので、とにかく、階段が多い。
ひょうたん池ののある庭園を眺めると、大悲王院はまっすぐな階段をあがったところ。
よっこらしょとのぼる。
のぼりつめると、そこに観音様が奉ってある場所。
どこからか、お坊さんがあらわれた。
さすが、お坊さん、神出鬼没である。
きょうは、庭園の風情もそれから大楓も一番いいときであるとユーモアたっぷりの話術にのせられた。
これも、皆様が善男善女だからとか。
ほんとか。
由緒正しいお寺の説明が終わると、お待ちかねの観音様。
案内されて、中にはいると、薄暗い。
線香のけむりも影響して、そこかしこは、うすぼんやり。
まんなかに、たくさんのきんきらの器がのってる。
なんだかわからないけど、お香をたくのだろうか。
いよいよ、観音様の扉が開けられた。
お堂のなかのそこだけ天井をぶちぬいたような観音様。
あまりの大きさに観客からどよめきが!
おおーっ!でかい。
顔がでかい。
その頭にたくさんの頭が生えている。
観音様の頭にまた、ちいさい観音様。
思わず、親亀の背中に子亀をのせて・・・♪と、不謹慎なことが頭をよぎる。
全部木でできているという説明に再び、観客からどよめきが・・・。
線香も1000年の歴史をへて、なお、朽ちることがないように、天然のものを使ったものなんだそうだ。

とにかく、この雷山。
名前のとおり、山の上にあるので、不都合が多い。
雷山という名前があらわすように、夏場は、雷が多いのだそうだ。
それに、湿気も多い。
なので、くさるものは、おみやげにできないとか。
再び、線香の話にもどると。
線香は、化学物質のまじらない天然線香を使用している。
なぜかというと、やはり、天然ものは、木の材質をいためないのだとか。
なるほど。道理で、顔がすすけている。
というか、くろずんでいる。
思わず、鉄?と思うくらい、黒い。
それも、歴史を感じていいといえないこともない。

観音様に感動したら、歴史にも感動しなくては。
伊都国歴史博物館は、卑弥呼伝説にも觝触する。
実物大の平原王墓など。
どこにでも、こういう博物館はあるし、土器でもかめでも、おたふくでも、見飽きた感もある。
土器そっちのけで、しゃべりつづけてたせいか、何も覚えていない。
もちろん、何をしゃべっていたかも覚えていない。

そんなことより、おなかがすいた。
次の場所、おふろとごはんが待ち遠しい。
伊都の湯、元気クラブは、お達者クラブとまた違う。
けれども、なんだか団体さんが多くて、風呂場もおおにぎわい。
ロッカーでもひしめきあい、露天風呂でもひしめきあい。
小さくなって入っていた。
ということはない。
みんなではいればこわくないという大声、地声で他を圧倒した。
たぶん。

ごはんはとてもおいしかった。
お刺身もちまちまでてくるおかずの数々も。
いつまでも出続けるので、どこが終わりかわからない。
けど、てんぷらだけはおしかった。
天つゆだけあって、てんぷらがでてこない。
ごていねいに菜種油からしぼってるいるのだろう。
そのせいか、でてきたとき、半分は冷たかった。

食後のデザートまでつきで、もりだくさんの内容でおなかは、ふくれすぎ。
とうとう、スカートのホックがとまらなくなってしまった。

おなかごなしに、よるところといえば、地元の物産店。
テレビでも何度かお目にかかってるここは、体育館くらいはある。
野菜だけではなく、花やおかしや魚や肉。売ってないものがないくらい。
誰かがこれ、おいしいといえば、手が伸び、これが珍しいといえば、手が伸び、これが安いといえば手が伸び。
でも、たしかにもう一度訪れたいとこだ。
しかし、ひとりでは二度とこれないだろう。

忘れてたけど、糸島といえば、九大の伊都キャンパス。
なんと、ここにいった。
といっても、素通りしただけだけど、とりあえず門をくぐった。
すごいとこだ。
なんにもない。
ほんとに、なにもない。
今から、そこらじゅうにいろんなものができるのだろうけど。
よくこんな、田舎に建てたものだ。
好きなだけ、拡張できるのはありがたいし、学生の皆さんが都会の風に吹かれてすれないでいられるというメリットがあるのもわかる。
静かに勉強にいそしめるというのもわかる。
しかし、交通がどうよ。
不便すぎん?
熱くならんでも、私に関わることは、一生ないんだけどね。

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広報委員会


とある広報の委員をしている。
今回は、次の広報紙の打ち合わせである。
来年3月に発行だから、今から、煮詰めていく。
最近は、インターネットが発達しているから、昔ながらの原稿用紙に文字を埋めてということが廃れつつある。
しかし、この広報委員会の年代は、60代中心。
そう、端境期である。
地区によってはデータ化ができて、なおかつ、メールで送付できるところもあれば、手書きで原稿を書き、写真を郵便で送るというところもある。
もっとも、昔は、この会議もそれぞれ持ち込んだ手書きの原稿を赤ペンで修正を入れてたりもしたそうだ。
それからすると、だいぶ、省略されてると何年も関わってきた役員さんは仰る。
中身は、固い感じの文章・・新聞のような・・と、写真も白黒。
ちまたにあふれる色とりどりの出版物に比べれば、とても、皆さんのお目にとまる代物ではない。
はなはだ地味なのである。
それをお手間もお金もかけて、作るのですから、ご苦労このうえない。
そういうわけで、今回の会長さんは、紙面刷新をしたいといわれる。
何か、新しいアイデアで、みんなの目にとまるようにしたいのだそうだ。
その気持ちは、尊重したいけれども。
ふたをあけてみれば、巻頭ページには、ありがちな会長の言葉と、会長の写真。
次のページは、これの重鎮の人のご挨拶ページと、はずせない何かがあるのでしょう。
これは、崩せないと言われる。
ああ、そうでしょうよね。
頭のかたいお偉方からすれば、序列は何より、優先するもの。

そして、どこをどう変えたいのか、今までの記事にたいするうんちくも出てくる。
ふむふむ。昨今、日本語の乱れはとどめを知らない。
ケータイと称する第三文字がでてきたおかげで、若者から中年まで広く深く侵攻している絵文字文化。
正しい日本語もきちんとした文面も顔文字威力には全くかたなしである。
そういうことを60代の皆様は憂いている。
たしかに、そうだ。
インターネットの広がり方から、どんどん、日本語の文は失われていっている。
単語文明。
単語でgo。
単語で会話。
単語と絵文字で会話。
わかってるのかわかってないのか、わかったふりなのか、通じているのか、通じていなくても、気にしないのか。
とにかく、日本語は廃れている。

というわけで、変えたい、みんなに読まれる広報誌にしたいという意気込みとは別に古式ゆかしい日本語の分別がこれまた邪魔している我らが世代。
結局、またまた、変化のないものに仕上がるに違いない。

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